SICF26のEXHIBITION部門に出展いたしました。
≪タイトル≫
無数の像、埋もれる器
無数の像、埋もれる器
≪コンセプト≫
私たちはひとつの身体を持ちながらも、
それぞれの他者が抱く異なる「私の像」によって、常に形づくられている。
親、兄弟、友人、知人──
彼らが見ている“私”はそれぞれ異なり、
私の意思とは無関係に像が積み重なっていく。
それらが蓄積されて、やがてひとつの「私」が構築されていく。
本作では、多数の鏡が配置されており、
鑑賞者の存在や動きに応じて鏡の角度が変化し、
映る像が刻々と変わっていく。
それは、他者が抱く「私の像」が視点の数だけ存在し、
決してひとつに定まることのない存在であることを示している。
鏡たちの集合は、個人のアイデンティティを象徴する
「器」として構成されている。
器は、自分で自分の像を選ぶことはできない。
ただ、無数の他者像が流れ込み、折り重なり、埋もれていく。
そして、気づけばそれが「私」そのものになっていく。
この作品は、
私たちが抱いている“自己像”がどこまでが自分のものであり、
どこからが他者の視線の集積であるのか──
その境界を問いかける。
それぞれの他者が抱く異なる「私の像」によって、常に形づくられている。
親、兄弟、友人、知人──
彼らが見ている“私”はそれぞれ異なり、
私の意思とは無関係に像が積み重なっていく。
それらが蓄積されて、やがてひとつの「私」が構築されていく。
本作では、多数の鏡が配置されており、
鑑賞者の存在や動きに応じて鏡の角度が変化し、
映る像が刻々と変わっていく。
それは、他者が抱く「私の像」が視点の数だけ存在し、
決してひとつに定まることのない存在であることを示している。
鏡たちの集合は、個人のアイデンティティを象徴する
「器」として構成されている。
器は、自分で自分の像を選ぶことはできない。
ただ、無数の他者像が流れ込み、折り重なり、埋もれていく。
そして、気づけばそれが「私」そのものになっていく。
この作品は、
私たちが抱いている“自己像”がどこまでが自分のものであり、
どこからが他者の視線の集積であるのか──
その境界を問いかける。


